明治33年3月6日に公布された汚物掃除法では、行政の責任と焼却によるごみ処理という、2つの画期的な方針が打ち出されています。
じつは、それまでは明治時代になっても、ごみ処理についてはほとんど江戸時代とは変わりませんでした。
たとえば、明治2年の「市中往還掃除令」や、明治12年の「市街掃除規制法」などでは、清掃に対して取り締まりの強化が行われています。しかし、その一方で、民間業者がごみを回収し、再利用を行うといった、ごみ処理のシステムについてはまったく手を加えようとはしていないのです。
では、汚物掃除法では具体的にどのような内容が取り決められたのでしょうか。
ここでいう汚物というのは、塵芥、汚泥、汚水、屎尿のことです。
本則9条、附則2条という短い条文ですが、細かい点についてはほとんど規則に書かれています。ここでは、条文の重要なポイントについて見てみましょう。
まず、第1条と第2条では、第一のごみ処理の義務が土地の所有者や使用者に、そして第二の義務が市にある、といされています。
これは、ごみを収集するのは個人で、それを処分するのは市だという意味です。
さらに、以下の条文では、市が個人に対して監督や処分を行うことを決める、とされています。
つまり、最終的な責任は市にあることがここで明言されているわけです。
しかし、問題もありました。それは、自治体が収集や処分の方法を、すべて自由に選べるようになっていたことです。これは、あくまで地域ごとに事情が違うことを考慮したものですが、そのため汚物掃除法が意図したような変化はなかなか普及しませんでした。
もともと、法律の対象自体が都市部となっていたこともあり、対応していた自治体は、東京や大阪、京都といったごく一部の大都市のみだったのです。
ごみ処理についても、結局はこれまで行っていた民間業者に、市が委託、監督するという立場になっただけでした。
国の側でも、ごみ処理の手数料や収入などをすべて市に一任する条文を入れていることから、もともと補助金などで助成するつもりはなかったようです。
このように、汚物掃除法は近代国家としてごみ処理の画期的なシステムを打ち出した一方、実態はそれをなかなか実現することはできませんでした。
ただし、その方針自体が正しかったことは間違いありません。その後、昭和に入って地方にも経済的な余裕が出てくると、ようやく自治体も法律に沿った行政サービスを行うようになっていきました。
最終的に、第二次大戦後の昭和29年の清掃法が新しく施行されるまで、ずっと汚物掃除法はごみ処理の基本として用いられることとなります。
まさに、日本の近代的なごみ処理システムの土台となった法律といえるでしょう。