江戸時代から明治時代にかけては、ごみは埋め立てによる処理が一般的でした。
その考えが大きく変わったのが、明治33年に施行された汚物掃除法によってです。明治10年代に立て続けに流行した伝染病の対策として、はじめてごみを焼却するという方針が打ち出されました。
しかし、当時日本にはまだ一台のごみ焼却炉しかありませんでした。
福井県敦賀市に建てられたその焼却炉では、1日に11.5tものゴミを焼却し、260kgの灰を肥料にしていたといいます。煙突の高さは1.8mほどで、自然通風式のものでした。
汚物掃除法が施行をされてからも、焼却炉の建設はなかなか進みません。東京市も導入を目ざしましたが、さまざまな理由からそれを断念しています。
理由のひとつには、そもそも当時の日本にはごみ焼却炉の技術がほとんどなかったことが挙げられます。
当時は、まだごみ焼却炉こそありませんでしたが、工業の発展にともない、日本各地に多くの工場が建設されていました。その焼却炉から発せられる悪臭や煙に対し、近隣の住民が大きな迷惑をこうむり、裁判が起こされることもあるほどでした。
ごみ焼却場の建設に対しても、各地で反対運動が起こり、なかなか土地の確保が難しいという側面もあったようです。
明治36年には、警視庁令「清潔保持に関する取締規則」によって、次のような焼却場建設におけるルールが定められました。
1.人家や道路から54m、飲料用の井戸から9m以上離れていること
2.周囲に高さ2.7m以上の塀を設置すること
3.15m以上の煙突を設置して、煙を抑える装置をつけること
これほど厳しい条件となったのは、ちょうど足尾銅山や別子銅山などの公害問題が時期的にかさなっていたこともあるようです。ただし、その数字には、ほとんど科学的な根拠はありませんでした。このようなルールも、焼却場の建設を遅らせるひとつの原因となっていたかもしれません。
こうした状況で、まっさきに焼却炉の建設に取り組んだのが大阪市でした。
大阪市では、ごみの埋立に適した土地があまりなかったため、7割ほどのごみが海中に投棄されていました。ところが、それが風の影響で大阪港や神戸市、堺市まで流れ着いてしまうといった問題を抱えていたのです。
そこで、まずペスト患者の家族の隔離所でもあった鼠島で、実験炉が建設されました。その後は、福崎、長柄にも焼却場が建てられ、大阪市ではおもに焼却場でのごみ処理が行われるようになっていきます。
また、明治37年には京都市の深草塵芥焼却場、明治39年には神戸市の浜添焼芥場という私設焼却炉が立て続けに建設されています。
このように、日本のごみ焼却場は、まずは関西から技術が発展していったのでした。